共産支那は叩き潰すべきであって友好関係を結ぶべきではない

共産支那は叩き潰すべきであって友好関係を結ぶべきではない

支那共産政権との友好など絶対にあり得ない。今日、世界最大最悪最凶の侵略国家・軍国主義国家・独裁専制国家が共産支那である。

こんな國は叩き潰すべきであっても友好関係を結ぶべきではない。新疆ウイグル(東トルキスタン)、チベット・内モンゴルに対す侵略と残虐な住民弾圧は天人共に許されざる行為である。

こんな國がアジアの盟主のような顔をして、エチオピアなどを金で手なずけ「兄弟」などと呼びかけることに虫唾が走る思いがする。

最近は、わが国国民の拘束を相次いで行っている。

これら対して、わが国政府は強硬な抗議を行わないし報復も行わない。

それどころか、習近平と言う悪魔的人物を「国賓」として招いた。

一体何を考えているのか。

そんなことをすると拘束された邦人は本当に違法行為を行ったのではないとか勘ぐられてします。

わが国の野党もメディアも共産支那政府による邦人拘束に対する糾弾を行わない。

全く許し難い。

共産支那は、北朝鮮とその体質は同じである。

権力闘争に敗れたら、殺されるか獄に入れられる。

毛沢東時代は過去のことだと思ったら大間違ひ。習近平による周永康、薄熙来、徐才厚などの粛清事件などを見てもそれは明らかである。

薄熙来・周永康は、劉少奇・彭徳懐・賀龍のようになぶり殺しにされなかっただけまだましかもしれない。

支那は「中華思想」といふ差別思想によってこれ迄の長い歴史において周辺諸國を侵略してきた。

秦始皇帝・漢武帝・隋煬帝(ようだい)・唐太宗のように内乱の後に大統一帝國が成立した時には、強力な國外侵略を行っている。

共産支那帝國成立後も同じ歴史が繰り返され、チベット・東トルキスタン・内モンゴル侵略併呑、わが國への軍事的圧迫・尖閣沖縄侵略策謀、ベトナムへの侵略が行われている。

わが國は、防衛體制を強固にし、アメリカ及び台湾・インド・ベトナム・フィリッピン・インドネシアなどの海洋國家と政治的・軍事的・経済的に提携し、支那の中華帝國主義のアジア侵略を封じ込めることが急務である。

日本人に今必要なのは、日本民族の誇りを回復し、中華帝國主義と戦う姿勢を確立することである。

【四宮政治文化研究所・四宮 正貴先生の投稿から頂きました。】

孝明天皇御製を拝し奉りて

孝明天皇御製を拝し奉りて

万延元年(一八六〇)三月三日に井伊直弼が誅殺された。

孝明天皇はこの年の七月二十六日に、
「こと國もなづめる人も殘りなく攘ひつくさむ神風もがな」
といふ御製を詠ませられた。

また、次のやうな御製ものこされてゐる。
「澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」(年月不祥)

孝明天皇は、翌年の文久二年(一八六一)五月十一日付渙発の『時局を御軫念の御述懐の勅書』(別名「時局御軫念の御述懐一帖」)では次のやうにお示しになった。

「惟に因循姑息、舊套(旧来のやり方)に從いて改めず、海内疲弊の極、卒には戎虜(じゅうりょ、外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊(西洋人)に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍を踏まば、朕、實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。

若し幕府十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師(懲らしめの軍隊)を作(おこ)さずんば、朕實に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう、前例)に則り、公卿百官と、天下の牧伯(諸侯)を師(ひき)いて親征せんとす。

卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して、以て報ぜん事を計れ。」

徳川幕府が攘夷を決行しなければ、神武天皇、神功皇后の御事績に倣ひ、孝明天皇御自ら、軍事的行動を起こされると宣せられたのである。

幕府は恐懼し、「勅書」を体して「奉勅攘夷」を貫くことを堅く誓約した。

小田村寅二郎氏は、この『時局御軫念の御述懐一帖』について、「この御文章は、ここに謹撰申上げた悲痛極りない御製の数々と共に、幕末を語るすべての日本人が必読すべきものとしてぜひごらんいただきたいと思ふ」(『歴代天皇の御歌』)と論じてゐる。

文久三年(一八六三年)には、孝明天皇の賀茂神社・石清水八幡宮に御幸され、攘夷祈願を行はれた。

今でこそ、石清水八幡宮にはケーブルカーに乗って男山を登りゆき参拝できるが、江戸時代末期はたとへ輿で登られたとしても大変な難行苦行であったと思はれる。

さらに、孝明天皇は、
「戈とりてまもれ宮人こゝへのみはしのさくら風そよぐなり」(御詠年月不詳)
といふ御製をのこされた。

この御製は侵略の危機に瀕する日本を憂へられた御歌である。

この御製を拝した多くの志士たちが尊皇攘夷の戦ひに決起した。

宮部鼎蔵(熊本藩士。尊攘派志士として、京都を中心に活躍。諸藩の有志たちと協議を重ね尊攘派運動を推進したが、池田屋事件にて自刃)は、孝明天皇の御製にこたへ奉り、次の歌を詠んだ。

「いざ子ども馬に鞍置け九重の御階(みはし)の桜散らぬその間に」
維新の志士の孝明天皇への赤誠・戀闕の心が、尊皇倒幕の行動を起こさしめた。

徳富蘇峰氏は、「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない。
長州でもない。
其他の大名でもない。
又当時の志士でもない。

畏多くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。

…孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であろうが、関白であろうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。

即ち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。

要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御蔭であることを知らねばならぬ。」(『孝明天皇を和歌御會記及御年譜』「序」)と論じてゐる。

孝明天皇の國を憂ひ民を思はれる大御心が明治維新の原点であり、孝明天皇の大御心にこたへ奉る変革が明治維新であった。

君民一體の神國日本の清潔さ・純潔を守らうといふ國粋精神が日本の独立を守った。

そしてその國粋精神の體現者・實行者が孝明天皇であらせられた。

【四宮政治文化研究所・四宮 正貴先生の投稿から頂きました。】

天皇を祭り主と仰ぐ日本國體の開顕する

天皇を祭り主と仰ぐ日本國體の開顕することこそが国難打開の道である

國難にあたり、神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の國家御統治の根幹である。

孝明天皇の國家・國民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となったのである。

第一〇三代・後土御門天皇の御代は、応仁文明の乱・疫病の流行・大火大地震などがあり、國民は疲弊し、朝廷の衰微も極に達した。

後土御門天皇が崩御になられた後、御大葬は行はれず、御遺体を宮中に御安置申し上げたまま四十九日に及んだといふ。

この時もまた未曽有の國難であった。

この國難の続く御代に際して、後土御門天皇は御宸筆の「般若心経」を伊勢の皇大神宮に奉納し、聖算長久、武運安全、兵革静謐を祈願された。

後土御門天皇は、明応四年(一四九九)に次のやうな御製を詠ませられた。
「伊勢
にごりゆく 世を思ふにも 五十鈴川 すまばと神を なほたのむかな」

この御製は聖天子の篤き祈りの御歌である。

いかなる濁れる世、乱世であっても、否、さうであればこそ、上御一人日本天皇は、神への祭祀、祈りを深められた。

そしてその事が、日本國再生の基となった。

今日の日本も「にごりゆく世」である。

また文字通り有史以来未曽有の國難に遭遇してゐる。

今こそ、祭祀主・日本天皇の御稜威の下、本来の日本の清き姿に回帰し困難を打開しなければならない。

今日の疫病猖獗などの國難打開のために、建國以来の歴史に学び、全國の神社・仏閣に國家國民が一丸となって國難打開の祭祀・祈願を行ふべきである。

わが國においては、大化改新、建武の中興、明治維新等の大変革が實現する直前に内憂外患に見舞はれ、國家の存続すら危ぶまれる状況において、全國民が一体となって、神仏への祭祀と祈願を行った。

そして危機を打開し、維新変革を實現してきた。今日においても歴史に学ぶべきである。

ところが、今日に於いては「現行占領憲法」の亡國的制約によって、國民的規模・國家的規模の國難打開の祭祀も祈祷も行ひ得ない状況になってゐる。

そればかりでなく、天皇陛下の最も重要なるお役目である「祭祀」が「天皇の私事」などとされて、国家が公的に翼賛し奉る道が封じられている。

これを根本的に改めなければならない。

そして、天皇を祭り主と仰ぐ日本國體の開顕することこそが国難打開の道である

【四宮政治文化研究所・四宮 正貴先生の投稿から頂きました。】

徳川幕府による朝廷圧迫について

徳川幕府朝廷圧迫

徳川幕府による朝廷圧迫について

第一〇八代・後水尾天皇は、徳川家康、德川秀忠の横暴と圧迫に苦慮されながらも、一天萬乗の大君として君臨あそばされ、修學院離宮の造営、學者文人藝術家へのご援助など文化面で大きなお力を示された。

後水尾天皇宸翰『忍』は、聖護院門跡に傳わるものである。

この宸翰は京都岩倉實相院門跡にも傳えられていて、小生も拝観したことがある。

この「忍」という御文字には、德川幕府の横暴と不敬行為に対する、後水尾天皇の深い思いが表白されていると拝する。

實に力強い筆致である。

徳川幕府は、天皇・朝廷を力で圧迫しながらもその権威を利用した。

徳川家康及び秀忠は基本的に尊皇心が非常に希薄であった。

幕府は徳川政権の持続と正統性の確保のためには、天皇及び天皇の傳統的権威を利用した。

しかし、天皇・朝廷を京都に事實上の軟禁状態に置いた。

元和元年(一六一五)、幕府は『禁中並びに公家諸法度』を制定し、朝廷と宮家・公家に有史以来未曾有の掣肘を加えた。

天皇・朝廷に対し奉り彦根藩及び京都所司代が厳しい監視にあたった。

江戸時代初期、德川幕府の理不尽なる圧迫を受けられた後水天皇は、「忍」の一字をしきりにしたためられた。

私も何年か前に、京都岩倉の實相院だったと思うが、拝観した。

後水尾天皇は、
『思ふこと なきだにそむく 世の中に あはれすてても おしからぬ身は』
『葦原や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず』
といふ御製をのこされてゐる。

江戸時代の朝廷は、德川幕府によって圧迫され掣肘され、迫害された。

故に、財政的にも窮乏した。

古代・中古時代のような天皇の御陵を造営することもできず、

江戸期の歴代天皇は、京都東山泉涌寺の寺域に造営された仏式の石塔の御陵に鎮まられている。

徳川歴代将軍が、江戸の芝増上寺、上野寛永寺の豪華な墓に眠っていることと比較すると、德川氏の天皇・朝廷への態度がいかにひどかったかが、事實を以て証明される。

江戸時代の禁裏御料はたったの三萬石であったと承る。

それも、家康が、慶長四年(一六〇一)五月、一萬五千石を献上した後、家光が一萬五升四合、家宣が一萬一斗余を献上し、ようやく三萬石余になったといふ。

まことに畏れ多いが、地方の小大名並の石高である。

幕末になり、幕府権力維持のために朝廷を利用せんとした幕府は、十四代将軍家茂は文久二年(一八六二)に十五萬俵献上し、十五代将軍・慶喜は慶応三年(一八六七)、山城一國に十三萬石を献上した。

天皇崩御の際の『布令』を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。

これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。

徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。

幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その實態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

【四宮政治文化研究所・四宮 正貴先生の投稿から頂きました。】

天皇の国家御統治の根幹

孝明天皇

国難にあたり、神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の国家御統治の根幹である

孝明天皇御製
「八幡山 神もここにぞ 跡垂れて わが國民を 守るかしこさ」
孝明天皇が、安政五年(一八五八)五月十五日「石清水社法楽(神仏習合の祭典))に、「寄山神祇」と題されて詠ませられた御製である。

頻繁に外国船が来航するやうになった幕末期の外患の危機の際し、孝明天皇は、弘化四年(一八四七)四月二十五日、石清水臨時祭を挙行された。野宮定祥(ののみやさだなが)を勅使として派遣され、神前に宣命を捧げられた。

その宣命には「近時相模国御浦郡浦賀の沖に夷の船の著(つき)ぬれば、その来由を尋るに、交易を乞ふとなむ申す。

それ交易は、昔より信を通ぜざる国に濫りに許したまふことは、國體にも関はりれば、たやすく許すべきことにもあらず。

…肥前国にも来着なとなむ聞し食(め)す、利を貪る商旅が隙を伺ふの姦賊が情実の知り難きを如何には為(せ)むと、寤(さめ)ても寐(ね)ても忘れたまふ時なし、掛けまくも畏こき大菩薩、この状を平く安く聞こし食して、再び来るとも飛廉(ひれん・風の神の名)風を起こし、陽侯浪を揚げて速やかに吹き放ち、追い退け攘ひ除け給ひ、四海異なく、天下静謐に、宝祚長く久しく、黎民快楽に護り幸い給ひ、恤(あは)れみ給ふべし、恐れみ恐れみ申し給はくと申す。」
と宣せられてゐる。

孝明天皇は、「寝ても覚めても外患を忘れる事は出来ない、外国船が来たら風波を起こして撃退し、四海に異変なく、天下は平穏で、國體は安穏で、国民の幸福を護り給へ」との切なる祈りを八幡大神に捧げられた。

さらに、孝明天皇は、嘉永三年(一八五〇)には、「萬民安楽・宝祚長久」の御祷りを伊勢皇大神宮・石清水八幡宮など七社七寺に捧げられた。

また、神佛に祈りをささげられると共に、幕府に対してしっかりとした対策を講じるやうにとの勅書も下された。

孝明天皇が、外患に際して日本国の祭祀主としてとご使命を果たされたことが、その後の明治維新の断行・日本国の独立の維持の基盤となったのである。

孝明天皇は文久三年(一八六三)三月十一日、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖(かもみおや)神社行幸攘夷祈願を行はせられた。これには、征夷大将軍・徳川家茂および在京中の諸大名が供奉した。

国難にあたり、特に神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の国家御統治の根幹である。

孝明天皇の国家・国民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となったのである。

天皇が御所の外に行幸あそばされるのは、江戸初期の寛永三年(一六二六)年に、第一〇八代・後水尾天皇が、徳川秀忠・家光に謁見されるために二条城に行幸あそばされて以来のことであった。

まことに畏れ多い申し上げやうであるが、あへて申せば、徳川政権は、上御一人日本天皇を京都御所に幽閉状態に置き奉ったのである。

孝明天皇は、同年四月十一日、石清水八幡宮に行幸になり、神前において徳川家茂に攘夷の節刀(天皇が出征の将軍に下賜する刀)を賜らんとされた。

これは神前で幕府に攘夷の戦争を決断させる目的であったと傳へられる。

これを長州の策謀と断じた将軍後見職・徳川慶喜は、将軍・徳川家茂には病と称させて供奉させず、自身が名代として行列に供奉する。

しかも、慶喜も石清水八幡宮まで来ると、腹痛と称して山下の寺院に籠もってしまふ。

慶喜は、天皇に社前まで来るよう召されたが、腹痛を理由にとうとう神前へは行かずに済ませてしまったといふ。

病気(おそらく仮病であらう)を駆け引きに使って、神前での攘夷決行の誓ひを回避したのは、慶喜の奸智であり政略であったといはざるを得ない。

まことに以て狡い男である。

この石清水行幸には多くの民衆が集まった。

中でも大阪から京都に「夥しく登り」、宿屋は一杯になり、祇園の茶屋が客を部屋に詰め混む有様であったといふ。

民衆は天皇に強い仰慕の思ひを持って集まり、神聖なる祭祀主日本天皇こそが日本国の唯一の君主であることを自覚したのであった。

賀茂行幸・石清水行幸において、二百三十七年ぶりに民衆の前にお姿を現せられた天皇は、征夷大将軍・各藩主の上に立たれる日本国の統治者であらせられるといふ天皇のご本質を顕現せられのたのであった。

言ひ換へれば、賀茂行幸・石清水行幸は、天皇を中心とする日本國體が正しく開顕する第一歩となったのである。

ところが、「現行占領憲法」の亡国的制約によって、国民的規模・国家的規模の国難打開の祭祀も祈祷も行い得ない状況になってゐる。

これを根本的に改めるべきである。

【四宮政治文化研究所・四宮 正貴先生の投稿から頂きました。】

祭祀とは神人合一の行事である

祭祀とは神人合一の行事である

先日も書いた通り、今日の疫病猖獗などの国難打開のために、全国の神社・仏閣に国難打開の祭祀・祈願を行うべきであろう。

わが國においては、大化改新、明治維新等の大変革が実現する直前に内憂外患に見舞われ、国家の存続すら危ぶまれる状況において、全国民が一体となって、神仏への祭祀と祈願を行った。

そして危機を打開し、維新変革を実現してきた。

今日においても歴史に学ぶべきと考える。

「祭祀とは神人合一の行事」である。日本民族は、神に対して常に祭りを行ってきた。

「まつり」は、日本民族の精神傳統・日本文化の原点である。

「まつる」といふ言葉の原義は、「お側で奉仕し服従する」「何でも仰せ事があれば承りその通り行ふ」「ものを献上する」「ものを奉る」といふほどの意である。

日本伝統的信仰精神の基本行事は、神を祭ること即ち「祭り」である。

「祭り」とは、神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。

つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事である。

「祭祀」とは、「始まりの時」に行はれた行事を繰り返し行ふことによって、「始まりの時」に回帰する行事である。

日本神道の祭りは、お祓ひ、祝詞奏上、玉串奉奠などを行ふことによって、罪けがれを祓ひ清めて、人としての本来の姿に立ち帰る行事である。

「無私」になって神に一切を「まつろふ」(従ひ奉る)から「まつり」と言ふの
である。

折口信夫氏は、「日本の太古の考へでは、此國の為事は、すべて天つ國の為事を、其まゝ行って居るのであって、神事以外には、何もない。

此國に行はれることは、天つ神の命令によって行って居るので、つまり、此天つ神の命令を傳へ、また命令どほり行うて居ることをば、まつるといふのである。

処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行致しました、と神に復奏する事をも、まつるといふ様になった」(『大嘗祭の本義』)「祭りごととは、食物を獻上する事に關する行動儀式といふ事であるらしい。

…神の命令によって、與へられた種子を田に下して作った結果をば、神に奉り、復命する事がまつろふなのだから、まつりごとは、神に食物を獻上する事である」(『祭りの話』)と論じてゐる。

柳田國男氏は、「神の大前に侍座して暫く時を過ごす意。

根本は尊敬せられるものとの対座面會、後世の語でいへば拝謁に近い語であったかと思ふ」(『神社のこと』)「マツルは…マツラフといふ語と別のものではない。

今でいふならば『御側に居る』である。

奉仕と謂っても良いかも知らぬが、もっと具體的に言へば御様子を伺ひ、何でも仰せごとがあれば皆承はり、思し召しのまゝに勤仕しようといふ態度に他ならぬ。

たゞ遠くから敬意を表するといふだけではないのであった」(『先祖の話』)と論じてゐる。

人は、はじめから神に生かされ、神と離れた存在ではなく神と一體の存在であった。

しかし、様々の罪穢が、神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまった。

『古事記』に示されてゐる「天地の初発(はじめ)の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰し、現実の罪穢れ、禍事を祓い清める行事が「祭り」である。

そこで、禊によって罪穢を祓ひ清め、祭りと直會(神と共に供へ物を食する行事)によって神との一體観を回復する。

穢れたる現實・歴史を無化し清浄化して原初に回帰する。

人が神のご命令に服従し、それを實現するために生活したことを復奏する。

これが神道行事の基本である「まつり」である。

つまり、人の本来の姿を回復することが「祭り」の原義である。

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細菌戦の勝利者を気取る習近平を撃墜せよ

細菌戦の勝利者を気取る習近平

後になって振り返れば、
一定の目的に向かって行われた行動によって、その目的通りの結果をもたらしたように見えるが、実は、その時、そんな目的はなく、偶然にその結果がもたらされた、ということがある。

サッカーをしていた少年が、突然、ボールを抱えてゴールに走り込んだ。
めちゃくちゃな反則プレーだが、この反則からボールを抱えて敵陣に飛び込むラグビーが生まれた。これは微笑ましい話だ。

また、こういうことは平時より戦争でよくある。
その一つの日本軍の例を挙げる。

昭和十七年(一九四二年)二月十五日の日本陸軍によるシンガポール陥落は、世界戦史上の金字塔であるとともに世界史を変えた大事件であった。

帝国陸軍第二十五軍(司令官山下奉文中将)隷下の第五師団(二万人)は、
二十隻の輸送船団に乗り込み、数隻の駆逐艦に誘導されながら昭和十六年十二月八日午前二時、マレー半島北端のタイ領シンゴラに上陸を開始し、直ちにタイとイギリス領マレーの国境を突破し、マレー半島西海岸の要衝である州都アロールスターを目指した。
しかし、この間にはイギリス軍の第11師団が全力で守るジットラーラインと呼ばれる強力な防御陣地があり、日本軍がここを突破するには一個師団二万人が全力を挙げても三ヶ月はかかるというのが敵味方双方の予想であった。
そこで日本軍は、敵情捜索を兼ねた先鋒部隊として佐伯支隊五百名をジッドラーラインに向かわせた。
佐伯支隊は、国境から十数キロの地点で敵軍と遭遇し、わずか五百名で敵中突破を試みた。
戦車同士の衝突から始まった激闘の後、敵は退却を始めた。
その時、既に州都アロールスタは目前だった。
すると、支隊全員がこのままアロールスタに向かって突撃すれば勝てると思い、
放った斥候も簡単に突破できると間違った報告をしたので、支隊は前進した。
しかし、斥候の報告は間違っており、敵は強力な縦深陣地を敷いていて、その中に入った支隊は全滅の危機に陥った。
その時、追いかけてきた岡部連隊が、敵の背後に回り込み佐伯支隊はかろうじて全滅を免れた。
そこで、夜になったら夜襲だと準備に取りかかっていたら、驚いたことに敵が退却を始めたので、佐伯支隊は一挙に逃げる敵に襲いかかりジッドラーラインを崩壊させた。
軍事専門家が、一個師団二万人で攻めても落とすに三ヶ月かかると言ったジッドラーラインを佐伯支隊五百人が、戦闘開始から十五時間で戦死二十七名、負傷八十三名の合計百十名の犠牲で陥落させたのだ。
そして、この十五時間のジッドラーライン突破が、マレー半島の制覇と翌年二月十五日のシンガポール陥落をもたらした。
後に捕虜になったイギリス軍工兵隊長を尋問すると、彼は、「このジッドラーラインを突破する為には、一個師団以上が必要なのは常識だ。
だから、攻撃してきた日本軍は一個師団以上だと判断し、また背後にも迂回していると思った。」と言った。
そこで、攻撃した日本軍は、実は五百名だと教えると、彼は、「そんな馬鹿なことがあるものか!」と言ったと記録されている(以上、福井雄三著「世界最強だった日本陸軍」)。

さて、何故、以上のようなラグビーの始まりの物語や、第二十五軍のマレー半島北部のジッドラーライン突破の快挙を記したのか。

その訳は、中共の習近平主席が、現在の武漢ウイルスが蔓延した世界の状況を、如何なる思いで眺めているかと思いを巡らせた時に、ふと浮かんできたからだ。

彼が最初から、武漢ウイルスを世界に拡散して現在のパニックを起こさせようとしたのならともかく、そうでないならば、武漢ウイルス蔓延の思いもよらない結果に目を見張って喜んだであろう。
そして、彼は、この結果を待ち望んでいたかのように得意になって利用しはじめたと思う。
即ち、彼は、現在、「細菌戦に於ける勝者」として振る舞い始めた。
つまり、彼は、既に細菌戦のモードに入っているので、日本やアメリカや欧州における、さらなる感染の拡大策を仕掛けるであろうし、勢力圏拡大の為の「マスク外交」を展開し、南シナ海や東シナ海そして尖閣海域における「力の空白」を付いた軍事行動を仕掛けるであろう。

つまり、習近平主席は、一昨年の全人代で豪語した「中共建国百年の二〇四九年には中華民族は世界の諸民族のなかに聳え立つ」という目的の実現が早まったと勇み立ち、世界第一位と第三位のアメリカ経済と日本経済を徹底的に減退させ、一挙に、世界の覇者として君臨しようとしている。

従って、中共の習近平主席は、既に「戦争モード」なのであるから、我が日本も「戦争モード」に入らねばならない。
安倍総理は、習近平の「国賓としての来日」などという平時は過去になり
現在は既に「戦時」だと転換しなければならない。
そして、既に「戦時」に入っているアメリカのトランプ大統領と連携して、日米で緒戦は南シナ海と東シナ海であるという認識を共有し、日米共同で西太平洋のシーレーンを断固守る軍事態勢を整える時だ。

習近平は有頂天になっているが、実は、天に向かって唾を吐いた如く、武漢ウイルスは中共経済を崩壊させる。
従って、そのうち、習近平は自滅する。
しかし、内部に弱点を抱えた共産党独裁政権は必ず外に向かって強攻策を執る。
従って、東シナ海及び尖閣に早晩、中共の攻勢が始まると覚悟すべきである。
その時、安倍総理、迷うことなく、断じて撃退しなければならない。
総理大臣は、あらかじめ、陸海空自衛隊の各幕僚長に、我が領海と接続海域の空海域で敵を見かけたら即座に撃沈撃墜せよとの命令を発しておけばどうか。

【衆議院法務委員 西村真悟先生の時事通信からいただきました。】

 

神仏への全国家的・全国民的祭祀と祈願を実行

-建国記念の日

神仏への全国家的・全国民的祭祀と祈願を実行

今日においてこそ、歴史に学び、神仏への全国家的・全国民的祭祀と祈願を実行し、危機を打開すべし

 今日の日本も幕末期・明治初頭と同じような否それ以上の危機に直面していると言っても過言ではない。

国難に遭遇している今日においてこそ、神武創業の精神に回帰した國家革新を断行しなければならない。

 自民党は、野党時代に「政府主催で建国記念の日を祝う式典を開催する」という公約を掲げた。

自民党が政権を奪還し、「日本を取り戻す」を政治理念とする安倍晋三氏が総理総裁となり、愈々政府主催の建国記念の日奉祝式典が行われると期待していたが、今日に至るまで実現していない。

また靖國神社参拝も実行していない。

これは一体どうした事か。

これは公約違反などという生易しい問題ではない。

まさに「日本を取りもどす」即ち国家再生・維新断行の根本問題の一つである。

「真正保守」と言われている学者・評論家・国民運動組織は、安倍晋三総理が批判することを遠慮しているようである。

福田康夫氏や石破茂氏が総理として安倍氏と同じようなこと、即ち「戦後七十年談話」「建国記念の日の政府主催行事の不実行」「慰安婦問題の決着」「靖国神社総理参拝の不実行」などをしたら、大変の非難攻撃を行うであろう。

私も安倍総理を正面から批判することを控えてきた。

しかしもう我慢も限界といった思いである。

そのことと共に重要なのは、今日の疫病猖獗などの国難打開のために、建国以来の歴史に学び、全国の神社・仏閣に国難打開の祭祀・祈願を行うべきであろう。

これは「叶わぬ時の神頼み」などという低次元の話はない。

わが國においては、大化改新、明治維新等の大変革が実現する直前に内憂外患に見舞われ、国家の存続すら危ぶまれる状況において、全国民が一体となって、神仏への祭祀と祈願を行った。

そして危機を打開し、維新変革を実現してきた。

今日においても歴史に学ぶべきと考える。

【四宮政治文化研究所・四宮 正貴先生の投稿から頂きました。】

 

天香具山は高天原と地上をつなぐ神聖な山

天香具山は高天原と地上をつなぐ神聖な山

「 天皇、香具山に登りて望國(くにみ) しましし時の、御製の歌
大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 國見をすれば 國原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし國ぞ あきづ島 大和の國は」  

 この御歌は、舒明天皇が大和をほめ讃へられた御歌で、「萬葉集」を代表する叙景歌(自然の風景を歌った歌)。

 舒明天皇は第三十代敏達天皇の皇孫で、推古天皇元年(五九三)に生誕され舒明天皇十三年(六四一)に崩御された。
舒明天皇の御代に初めて遣唐使が派遣された。
蘇我氏が大きな力を持ってゐた時代の天皇である。
舒明天皇の第二皇子が蘇我入鹿を討ちとって大化改新を断行された中大兄皇子(後の天智天皇)であり、第三皇子が天武天皇である。

 香具山は奈良県橿原市東部にある海抜一四八㍍の小山。
大和盆地は海抜百㍍だから麓からは四八㍍しかない。
畝傍山・耳成山と共に大和三山の一つである。
古代日本人には、麗しい山を神と仰ぐ信仰があった。

大和地方では大和三山・三輪山・二上山など、東國地方では富士山・筑波山など、九州地方では高千穂峰・阿蘇山が尊い山として仰がれた。

 「香具」(かぐ)とは「輝く」を短くした言葉で、香具山は輝く山・神聖な山として信仰の対象となってゐる。
後世のかぐや姫とは「輝く御姫様」といふ意である。
天香具山とは「天に通じる輝く山」といふ意で、高天原と直結する山と信じられたのである。

 高天原にある天香具山について、『古事記』には、天照大神が天の岩戸に隠れになった時、大神に岩戸からお出ましを願ほうとした八百萬命が相談して、天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとたまのみこと)が取って来た天香具山の男鹿の肩胛骨を波波迦の木で焼いて占ひを行って、天香具山に茂った賢木(さかき)に勾玉(まがたま)や鏡などを付けて捧げ持ち、天宇受売命(あめのうづめみこと)が天香具山の日影蔓(ひかげかづら)を手襁(たすき)に懸け、真拆(まさき)を鬘(かずら)として、天香具山の小竹の葉を手に持ち、岩戸の前で桶を踏み鳴らして神憑りしたと傳へられてゐる。

 また、神武天皇が御東征を終へられ大和に都を開かれる時のお祭りで用いられた神具の土器は、天香具山の土で作られたと傳へられてゐる。

國土には地の靈(國魂)が籠ってゐるといふ信仰があり、大和の都を開かれるにあたっては、大和の國の靈を鎮めなければならない。

そのために大和の地の靈を象徴し大和の國魂が宿ってゐて、天と地とをつなぐ神聖なる天香具山の土を、土器にして祭祀に用いたのである。

それによって、神武天皇は大和國を治められる靈的なお力を備へられたのである。

天香具山の土を手に入れることが大和全体を掌握することになるといふ信仰である。

 折口信夫氏は、「天香具山の名は天上の山の名である。同時に地上の祭時に當って、天上と一つの聖地-天高市(アメタケチ)-と考へられた土地の中心が此山であった。だから平常にも聖なる地として天なる称號をつけて呼ぶ様になったのだ」「大和なる地名は、當然宮廷のある地を意味する。

天は、宮廷の真上にあり、宮廷のある處は、天の真下である。

即ち、國語に於ける天が下(アメガシタ)の確かな用語例は、宮廷及び宮廷の所在を示すことになる。

だから、宮廷の存在なる狭義の大倭は、天が下であり、同時に天其物と觀じることが出来た。天香具山は、地上に於ける聖地の中心であった。

即ち、大倭の中心である。

この山の埴土(四宮注きめの細かい黄赤色の粘土)は、大倭の國魂の象徴にもなる…。」(「大倭宮廷の靱業期」)論じられてゐる。

 天皇のゐます宮は「天」(高天原)であり「聖地」である。

その中心が天香具山なのである。このやうな神聖な所を神座(カミクラ・神のゐますところ)といふ。

 このやうに天香具山は天皇の祭祀・神事即ち國家統治には欠かせない尊い山である。

舒明天皇が、神座である天香具山に登られて「國見」をされた時の歌がこの御製なのである。

【四宮政治文化研究所・四宮 正貴先生の投稿から頂きました。】

 

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伊勢の皇大神宮は日本傳統信仰の結晶

伊勢の皇大神宮は日本傳統信仰の結晶

伊勢の皇大神宮は、日本傳統信仰の最尊最貴の聖地であり、日本傳統精神がそこに現実のものとして顕現している。
日本傳統精神とはいかなるものかを実感するには、伊勢の神宮に参詣し神を拝ろがめば良いのである。
理論理屈はいらない。
日本傳統信仰が自然に伊勢の神宮といふ聖地と聖なる建物を生んだのである。
それは太陽神への無上の信仰であり、皇室への限りなき尊崇の情であり、稲への限りない感謝の心である。

天武天皇は、壬申の乱の時、朝明郡迹太川(とほかわ)で伊勢の神宮を遥拝された。

柿本人麻呂の高市皇子への挽歌では、伊勢の神風を称へてゐる。

西行法師(平安末期・鎌倉初期の歌人、僧)は、治承四年(一一八〇)六十三歳のときに三十年ほど過ごした高野山から伊勢に移り、伊勢の神宮で
「何ごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるゝ」
と詠んだ。

葦津珍彦氏は、
「伊勢に鎮まります天照大御神の神宮は、荘厳にして高く貴い。
しかもいささかの人工的な飾り気がなく、誠のおごそかさを感じさせるが威圧感もない。

ただ清らかで貴い。
この清らかさ貴さは、天照大御神を皇祖神として信奉される天皇の御信仰の気風の自らなる流露でもあるかと察せられてありがたい。」
(『皇祖天照大御神』)と論じてゐる。

昭和四十二年の秋、イギリスの歴史學者、アーノルド・J・トインビーが夫人と共に参宮された時、内宮神楽殿の休憩室で「芳名録」に記帳し、
「この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底をなすものを感じます」
と書いた。

人類は様々の宗教を信じてゐる。

そしてそれらの宗教はそれぞれ特色があり、人類に救ひと安穏をもたらしてゐる。

しかし半面、人類の歴史は宗教戦争の歴史であったともいへる。
それは今日に至るまで続いてゐる。
神を拝み神を信じる人々による凄惨なる殺しあひが行はれて来た。

しかし、宗教の根底にあるものは同じなのである。それは、天地自然の中の生きたまふ「大いなるもの」への畏敬の心である。
伊勢の神宮はまさに、最も純粋に最も簡素にその「大いなるもの」をお祭りしてゐる聖地なのである。

吉川英治は、昭和二十五年十二月に参宮した時、
「ここは心のふるさとか そぞろ詣れば旅ごころ うたた童にかへるかな」
といふ歌を詠んだ。 

日本國民の伊勢の大神への崇敬の心は、教義教条に基づくのではない。
日本人としてごく自然な「大いなるもの」への畏敬の心である。
だからこそ、仏教徒もそして外國人も伊勢の神宮に来ると「大いなるもの」への畏敬の心に充たされ心清まる思ひがするのである。

【四宮政治文化研究所・四宮 正貴先生の投稿から頂きました。】